11月最終日。あすはダンナ帰宅予定。
雨が降っていて、寒い。また風邪を引いた様子なのが情けない。精神的にダウン気味なのかも。
気合を入れなおす。気合だけでなく、感謝も忘れずに。
感謝といっても、神仏とかいうヤツではなくて、今日のハッピーを見つけようという意味。
毎日は小さいハッピーが積み重なってる。
そのことを、忘れてしまうことも多いのだけれど。
乱雑に散らかった部屋。精神状態に似ている。
後回しにしていることをそろそろやっつけないといけない。
締め切り過ぎてますよー。
あしたから、また新しい日常生活。楽しみだ。
時間を見て、手織り機に経糸をかけよう。
靴を買うのが好きで、靴のデザインが気になって、
わたしは60足を越す靴を持っていたことがある。
当然玄関付近には入りきらず、居室にたくさん並んでいた。
ダンナと同居し始めたときその大量の靴を持ち込んだため、
狭いアパートが大変なことになった。
天井付近にずっと棚を作りまわして収めてくれたことを、今でもうれしく思っている。
そのダンナはというと、当時4足しか持っていなかった。
普段+仕事用のスニーカー2足。新しい方が気の張る時用で、もう一足が普段履き。
休日用のサンダル、そしてきちんとした時のための革の靴。
こんなんでも生活できるんだ、とびっくりした。
60足も持っているわたしも極端だったけれど、
それでも持たなくてもいい靴を持っている人は多いと思う。
靴はファッション商品だから、ストイックに減らすのは必ずしも必要ない。
それでも、ファッションならばこそ、流行を過ぎた靴は手放していいだろう。
雨が降ったら履くかなぁと思っても、案外履かない。
底が革でできている靴は、古びても雨の日には履けないから。
靴を買うときも、どの服とあわせて、どんなシーンに履くのか、考えて買う。
しばらく履かなかった靴は、鏡の前で服に合わせてみて、
今の自分らしく履きこなせない時は潔く処分しよう。
買うときに、足に違和感があったら買ってはならない。どうせ履かなくなるから。
そして、履いたら休ませることと手入れすることを忘れないように。
カテキン、カテキン、ビタミンCと言い聞かせ、お茶の稽古に行った。
郵便局で本の発送。
ダンナから弱音の電話がかかってきて、励ます。
気の毒だけど、がんばってね。待ってるよ。
帰ってきたらいっぱいしゃべろう。
今日のありがとう:
病気が治りつつあること、褒めてもらったこと。
大人になると、なかなか叱られないけどなかなか褒めてもらえない。
今日の偶然:特に見当たらない。あ、阿部さんに会ったこと。
わたしは料理番組が好きだ。
おいしいものに熱心だし、誰かが料理しているのを見るのも好き。
で、お料理の本も好きだ。
最近思うのだけれど、料理のおいしそうな声ってあるんじゃないだろうか。
お気に入りの料理研究家、テレビで見たら声が嫌い。
なるほどぉ・・・。
あの人とあの人の声が安心できて、料理もなんだかおおらかだ。
声自体というより、料理をしているときの全体の感じ。
昔、二枚目だった叔父は、声が長嶋茂雄みたいに甲高くて、
二枚目俳優としてはイケなかった。後に男性モデルとして成功した。
声で料理するわけではないけれど、テレビで料理を見るようになって
声も料理の腕のうちみたいな気がするから不思議。
きょうは口の中が絶不調で食べられない。
ぬるぬるしたもの、ねろねろしたもの、飲み物で暮らした。
あしたはお茶にいくのだけど、どうする・・・。
Ku:nel購入。
スタンスがはっきりしていて良い。
牛乳と卵とサラダオイルが必要で購入。肉なども買って1600円。
外出しても気が散って何もできないに決まっているのでお籠り。
久々にカスピ海ヨーグルトを仕込んだ。
親の仕事ってなんだろうかと考えることがよくある。
自分で考えること、自分で解決できる手段、それらを身につけさせること。
放置ではなく、教え込むのではなく、自分で気づける方向に持っていくこと。
なかなか難しい仕事だ。
親にも日々があり、毎日なにかに気づいている。
そのことを伝えることも大切だと思う。
26日は朝から雨だった。
ダンナは26日に地震があるから避難せよと言っていたが起きなかった。
どしゃぶりで気力なく、身の回りの片付けなどして過ごす。
それにしても、先々週、先週のだるさは尋常でなかったので、
体が回復しているのだとはっきりわかる。
口内炎17個。舌の脇に3個、舌の上は赤い潰瘍が4つ。全部で21箇所か。すごい。
土砂降りの中を傘のもてない母が医者に行ったらしい。
雨がひどくて、古いアパートの防火システムがまた壊れ、緊急音が鳴り、防火扉が閉まる。
すでに何度目かなので騒ぎはない。
老朽しているらしい。ショートするのだろう。
鬱の弟に電話して、運命鑑定の話をした。
面白がっていただけましたでしょうか。
27日はきっぱりと晴れた。
洗濯、郵便局、区役所、小学校の個人面談、銀行、眼科。
忙しい一日だった。
体調があまりよくないせいもあり、なにかと億劫だ。
最近の食生活を考えると、どうも野菜が少ない。
冷蔵庫に野菜が入っているのに、可愛そうに霊安室状態。
生きていた野菜が瑞々しいうちに使ってやれるようにと
保冷するための箱であるはずなのに、
傷むのをあと延ばしにするための箱になっているのだ。
なんだか情けなくなって、何に使うともなく下ごしらえをしておくことにした。
キャベツを3枚ばかりはがしてせん切りにする。
ブロッコリを分けてゆでる、茎の外皮をはがして薄切りにする。
しいたけを軸と笠に分けて軸を裂く。
はつか大根の根と葉を分けて、葉は刻み、根は薄切りにして塩する。
大根の半分の皮を剥いて皮は干し、胴はいちょう切りとせん切りに。
そんなことをしているうちにお腹がすいて、
中華風の鶏がらスープに鶏ひき肉と刻んだばかりのキャベツのせん切りを放り込み
アツアツの稲庭うどんをすすりこんだ。
たまたま野菜の準備ができていれば、億劫でもすぐ準備ができる。
ビタミンCや栄養は後回し。
野菜をハリハリと噛むとなんだかすっきりとする。
きっと足りなかったんだなと思った。
夕食はブロッコリの茎やはつか大根の葉がたっぷり入った炒め物。
なんだか出番を待っている野菜がいきなりいとおしい。
24日。晴れた。目が覚めたら10時過ぎ。
昼から友人といっしょに自転車で区の施設へ。
織物体験を申し込んであり、子供といっしょにコースターを作る。
行ってみたら4人で同時には作業できなかったのだが、
それぞれに裂き布や毛糸を使って好きな小布を作った。
コボリ家の畑に立ち寄り、野菜をいただく。
自宅にちょっともどっていろいろ持って、コボリ家で夕食。
鍋パーティーに急遽参加といったところ。
子供たちは大騒ぎになっていて、遅い時間に帰宅した。
きょうはダラダラ気分だ。家の中であれこれとやる。
久しぶりにキッチンが片付いた。
ちょっとは調子が良くなったらしい。
テレビで皆既日食を見た。
輝く太陽が影に侵食され、すっかり陰に隠れた瞬間も
隠し切れない光芒が影の周囲からもれる。
見ている間になんだかジーンとしてしまった。
この気持ち、なんだろう。
太陽ってすごい。
南極の地平線から見た太陽、光が六方に広がっているのが見える。
雪の結晶のようだ。
なんとなく、自然界には相通じるサインのようなものがあって面白い。
屋久島でまた皆既日食があるのだそうだ。
行ってみたいな。
いまや立派なおばさんだが、どうも人にお酌するのが嫌いだ。
されるのも嫌いだ。自分のペースで飲みたい。
もう一杯いかが、と聞いてよ。いきなり注がないでよ。
酒の席で水割りを作ったり、あいた杯を見計らって酒を注ぐのが
その場に居合わせた女性の当然の仕事であるとされることが多い。
社会人になった時、本当に辟易した。
これは父の教育の賜物だと思うのだが、
「シロウトの女性がお酌をするのはみっともない」
「プロの仕事を半端にやるものじゃない」とずいぶん聞かされた。
これもまた差別なのかもしれないが、
それを仕事にしていないオンナが酒の席で目端が利くのは下品だというのだ。
気が利かないオンナとしてずっと過ごしてきた。
そして、ホームパーティーなどで居合わせた少女に酒を注がせる男がいると
「シロトのオンナに酒を注がせるなんて男として良くないわ」なんて言ってしまう。
世の男は、年頃になった自分の娘が酒の席に居合わせて、
かいがいしくお酌をしたり水割りを作ったり
うまく酒席で話を合わせたりすることを望むのだろうか。
わたしは自分の娘が不器用といわれてもいいから泰然としていて欲しいと思う。
酒を注いだくらいで堕落だとは思わないが、
そういう方便を覚えなくても渡れる世間であって欲しいと思う。
もしも自分の娘にやらせたくないと思うなら、
他人の娘にやらせるのはどうだろうか。
どんな女性も、誰かの娘だ。
人のことがわかれば、酒を注ぐ注がないだけでなく、
セクハラまがいのことは起きないはずなのに。
子供の病気がうつった。手足口病。
もともと口内炎はひどいので、またバランス壊れたかなくらいだったのだが
実は手足口病なのだった。
口内炎がきのうは10個だったのが、きょうは舌の横にもできて13個。
直り始めないうちに次ができつつある状態なのでつらい。
発熱アリ。
きのうはお茶の稽古、きょうは氷川神社。
いずれにせよ予定はうまく動かない。
あしたは友人といっしょに出かける予定なんだけど快方に向かうだろうか。
手足口病ってのは夏の病気で、しかも子供の病気なんだ。
こんなものに振り回されてどうする!とか思っても、
結局体はつらいわねぇ。
口内炎の痛みで震えながら、それでも食事はするわたし。
4つくらいまでなら我慢できるんだが、10個超えると避けようがない。
食べると歯があたるし・・・。
なんだか苦しいことの続いたある日、早起きしたら天気が良かった。
窓をあけて空気を吸い込み、「おひさまさん、おはよう!」と心の中で叫ぶ。
光の中で目を閉じると、なんだかあたたかい色が見える。
朝がこのあいさつで始められたら、一日いい日になりそうだ。
朝から雨。ダンナはきょうから九州。
朝からネットの旅をし、新宿花園神社に行き、小学校へ行った。
転倒。ばばくさ・・・
帰宅して、バタバタと片付け、来客。
おかしなことになってしまった。神社って、なに?占いってなに?
わたしは自分の職業がしりたかったかも。
いま候補にあがっているのはほとんどダメ。
でも、なんとなく進む方向も見えたかも。
咀嚼できないので書けない。そのうちにまとめるとしよう。
ダンナが8時半出発でマイド倉庫に「くるみ」の荷物チェックに行ったので
わたしもさっさと松濤美術館へ。
展覧会としてのまとまりはどうか、などという人はいそうだが、
わたしにとってはすごい展覧会で揺さぶられた。
心地よい。
客観的に語れないので、もっと自分で味わうつもり。
カタログを買った。合田さんの作品は、印刷物になると光を失うので、
このカタログは記憶のきっかけのために。
帰宅してランチを食べていると(納豆ご飯もランチか?)生協。
受け取って戻ったところへダンナがフタバと帰宅。
なんかフタバがiBookを買ったらしく、環境整備をしていた。
ムスメは帰宅するなりフタバに仰天しつつ、そのままアトリエに。
drug.それもいいでしょ。
夜はいろいろ作ったのだが、どれもあまりおいしくできなかった。
きょうのお言葉:
わたしにしかできない仕事があるはずよ!
スナフキンは、物を持つのに臆病だ。なにしろ一生が旅の最中だからね。
わたしは、シンプルを追及しすぎてスナフキンみたいになりたいとは思わない。
ただ、家の中で置き場所のないものを手に入れても、
大切にしてやれないなと思う。
だから、慎重になるのはかまわないと思っている。
ところで、スナフキンはハーモニカを持っている。
旅の荷物をひとつでも減らしたいのに、新品のズボンを断るのに、
彼はハーモニカを持っている。
わたしにとってのハーモニカはなにかな?
使うだけではない、心を楽しませるためのもの。
そういえば、ロンサム・カーボーイたちも、ブルースハープを持っていた。
ポークビーンズの鍋、焚き火、薄いコーヒーとハーモニカ。
音楽は形のない荷物。
合田さんの作品にはめちゃくちゃ思い入れがあるので語れない。
著名な作品としてはいろいろあるけれど、
目にしやすいのは寺山修司のポスターや舞台美術、唐組の芝居のポスター。
1994年からこっち、ほとんどギャラリーに足を運んでいないので、
合田さんの作品を見るのも久々ということになる。
松濤美術館はそばを通ることがあってもなかなか縁がなくはじめてだった。
地下の展示室に入ったとたんに、強い光と色を放つシアワセな作品に照らされてしまった。
まぶしい。油彩なのだが、圧倒的な光の量。
この部屋から出たくない気持ちだった。
天井桟敷のポスターとその原画、コントラストの強い70年代の作品、
エジプトとその直後、ポラロイドの時代。
そしてオブジェ。
こうして初期から現在までの合田佐和子作品をまとめて見ていると、
合田さんは絵を描き始めてからこっち、
ずっと同じものを描いているのだろうなという気がしてする。
溶けたガラスの塊から発せられる、きらめきとゆらめき。
さまざまに手法が変わり、インスパイアされるものが変わり、
作品も変わっていくけれど、合田さんの作品にはいつも、圧倒的な光があって
わたしはいつもそれに勇気付けられる。
晴れ。我が家は晴れるとガラスの内側はめちゃくちゃ暖かい。
温室のトマトになった気分。
ダンナは夕方までパソコンで仕事をしてシアタートップスの裏で打合せ。
ムスメは学校へ行ったものの疲れたようだ。ごくろうさま。
わたしは口内炎が3つもできている。
火災報知器の点検があるので朝から掃除機。なにしろ全室チェックだ。
押し込んだ押入れの中まであけるのでまあ一部は仕方ないので放置。
初めてのときは驚いたが、担当者が変わらないので
ここ数年で知り合いになった気分でかまわないことにした。
ついでにムスメの服を全部入れ替えた。
druggyな日になると思ったのだがならなかった。
カマダの支払いをした。なにかって?だし醤油です。ネット注文でお取り寄せ。
マダムみたい。ワイドショーに出てくるみたいな?
渋谷のThe GARDENに行くと売っているのだけれど、
直販よりちょっとだけ高いので、交通費と時間を考えると取り寄せの方がお得。
わたし自身の母子手帳が送られてきて(実母より)、
予定日より21日もあとに生まれているのを発見。
これって、運命鑑定に関係あるのでは。
占い関係って雑誌の後ろに出ているのを見て、閉じたとたんに忘れるとか
友人のサイトにあるscriptのタロットを面白がって引くとかその程度で
本当に占ってもらうのは初めて。シロウト占い師も含めて。
父の親類がわりと占い頼りの人たちで、ある意味嫌悪感を持っていたので
自分から運命鑑定を頼むなんて奇天烈。
わたしの名前も、出産時にトラブルがあったとかで
勝手に占いさんに決められたそうで。選択肢は文字面含めて二者択一ですって。
明日は、松濤美術館へ足を運びたい。
時間としてはかなりタイトだけれど、なんとかなることでしょう。
「合田佐和子展」。24日まで。
いつもやるのにどのくらいだっけ?と迷うので今回の分量を記録。
材料:
りんご(今回は紅玉) 2個
レモンスライス 2枚
白ワイン 1カップ
砂糖 大さじ4
水 50cc
・リンゴは細かめの櫛形切りもしくはスライスにする
・リンゴとレモン、白ワイン、水、砂糖を耐熱容器に入れ、
ラップをして500Wで10分電子レンジにかける。
コレで終わり。
レモンスライスは皮の苦味が出るので早めに食べちゃうか取り除く。
野猫さんのコメントを見ておまけ。
3回分くらいシロップが溜まったところで、
ちょっと砂糖を足してシャーベットにする。
リンゴとワインの香りがおいしいシャーベットになる。
結局、ムスメは夕食も食べずに眠り続け、
途中数回目を覚ましたもののまた眠り、
けっきょく夕方5時半から朝8時過ぎまで眠り続けたのだった。
朝トイレに起きたムスメに、「風邪だったんだね」と言っていた。
朝食後、ムスメがやってきて、手にブツブツができて痛いんだよと言う。
えっ、ちょっと見せてごらん。足の裏とかない?
あっ足の指のところにもある!
というわけで、手足口病と勝手に判断。
でも、初めての体験なので医者に行く。
やっぱり・・・なぁんだ病気か。
ただし、だいぶ軽いらしい。今年は秋口から流行し始めて、どれも軽めだそうだ。
あした学校行ってもいいということで安心した。
夕方、飽きて機嫌の悪い娘を誘い出し、防犯ベルなど買いに。
昨今かなりいろんな事件があるせいでよく売れているらしい。
なるほど売り場もかなり品薄。
それでも好きなスマイルのモチーフのものがあり購入。
毎年買っているクリスマスオーナメント、菓子など買って帰宅。
ダンナは昼過ぎから銀座で仕事だったのだが7時過ぎに帰宅。
なんだか疲れた様子で9時前に寝てしまった。
手足口病って、ほんとに手と足と口なのね。
きのうのわたしの頭痛と口内炎は、もしかすると同じ病かも。
物を使い尽くすというと、なんとなく節約の裏ワザみたいになるのだが
買った野菜を全部使い切るとか
傷んだシーツのきれいなところで袋を縫うとか
そういう小さな工夫はかつては当然のものだった。
必要なものは買う。それ以上は次の人のために残す。
手に入れたからには使い尽くす。
それが正しい姿勢ではないか。
面白いから買ってみる、無くなるかもしれないから買い貯める、といった行為は、
おいしそうだから食べてみる、もったいないから食べてしまう、
そんな肥満への道に良く似ている。
裏ワザとしてではなく、品よく暮らすために
今手元にあるものを使い尽くそう。
そうして改めて見直してみると、使い尽くせないほど持っているのがよくわかる。
反省の毎日。
きょうは「月に一回だけ好きな日にマクドナルドに連れて行ってやる」デー。
きのうから「あした朝マックに行きたい!」と言われていたので
朝食からマクドナルド。
行ってみたら「フライドエッグベーグル」などというものがあり
まあまあ苦しまずに済んだ。
父親は絶対足を踏み入れないので、わたしが係だから仕方ない。
銀座にマクドナルドができたとき、次の週くらいに食べに行った。
家族で銀座に行って、
ワクワクしながらカウンターでハンバーガーとマックシェイクを買ってもらって、
さて食べようと思ったら座るところがなかった。
銀座の歩行者天国にはガーデンテーブルみたいなセットが並んでいたけど
どれもマクドナルドを食べている人でいっぱい。
当時は立って食べるって罪悪感あったし、
なんとなく電信柱のそばに立ってよるべない気持ちで食べたのを
子供だったのにしっかり覚えている。
マックシェイクなんてめちゃくちゃおいしいと思ったのに、
頼まなくなってどのくらい経つだろう。
帰りにスーパーで買い物をして、適当にランチを食べて。
頭痛がひどくなったので40分ばかり睡眠。
ムスメは遊びに行って、夕方帰宅。
5時過ぎくらいから頭痛がすると言って、
5時半には着たまま眠ってしまった。
まだ寝ている。朝まで寝るといいのに。
確かに疲れているのだろう。
疲れたら寝る。それが一番。
わたしもジンソーダ飲んだらお風呂に入って早く眠ろう。
朝起きると窓を開ける。廊下側も開ける。
夏と冬とは風向きが違う。
それが、聞こえる音ではっきりとわかる。
朝、家族よりちょっとだけ早く起きて、キッチンで耳を澄ます時間が好きだ。
今日一日のスケジュールを考えながら、
家の中の空気が透き通ってくるのを感じている。
やっぱり、家は風の抜ける家がいい。
抜ける風で家の中がめちゃくちゃにならない程度に片付けて、
いつも新しい空気を吸い込んでいたい。
ムスメが育っていて、冬物がみんな小さい。
なかなか急激に大きくならないでここまできたのだが、今年の夏は育ったらしい。
パジャマや下着が全滅で一気に買い替え。厳しい。
ダンナは本日も大宮。明日までらしい。
きょうは学校が展覧会で出の日だったので、明日、あさってが休み。
きょうだって午前授業だったのだから、こんなに休みばかりでどうなるかと不安。
宿題しかしないで遊びまくっている。わたしはどうだったかな。
やっぱり5年生くらいまで勉強なんかしなかったか。
「時代が違う」んだそうで、ささやかに不安である。
わたしもダンナもドロップアウト気味なので、
勉強ができて進学したからってそれが何よみたいなところがある。
ただ、成長して日本を飛び出して仕事をしたくなったとき、
もしかしたらネームバリューって武器になるかもなんて思ったり。
今の日本じゃアホらしいか。
今のわたしはそれどころではなく、
自分の一生のために、とりあえず肉体的にパワーが欲しい。
勝負に出るにしろ勉強するにしろ、体力が欲しい。
なんだか最近ニクタイ的には弱気。
来週、運命鑑定さんと会うことになった。
夕方来るというのでご飯の用意くらいしますよ、とつい言った。
ダンナはその日はタビだそうだ。
修理して、大事にしたものほど手放せない。
衿が擦り切れるまで着たダンガリーのシャツ、
袖口がほつれるほどのスエットシャツ、
底を何度も張り替えて何年も履いたパンプス。
服だけではない。手をかけただけ、心がはいる。
それは人間関係も同じことで、悩み、迷い、乗り越えるほど深くなる。
夫婦や親子もそうしたものではないだろうか。
手をかけた、気持ちを傾けた恋が、
いつの日にかなめした皮のように滑らかで強靭な家族になればと思う。
家族でありながら、恋した日々を忘れまいと思う。
パソコンって、便利なのか不便なのかわからない。
パソコン通信時代を含め、とにかく劇的に世界が広がった。
インターネット時代となればなおさら。
データもとりあえず放り込んでおけばあとで取り出せるし、
便利便利・・・だけどさ。
一方でパソコンのお守りをしている時間も劇的に長い。
今のVAIO、去年の正月過ぎに買ったのだが、
モニタドライバを更新せよというので更新したら認識しなくなって
もう「きょうのあしたの」という資料を作成中だったのでリカバリ、
次はハードディスクが異音を上げたので落としたら
二度とまったく反応がなくなり
やりかけてることがあったので急遽新宿にてハードディスクを買って交換。
で、きょう。
いきなり液晶モニタのど真ん中を完全に横切る黒い線が。
うー、ジャマ。
全部なくすと、復旧に異常に時間がかかる。
短期間に2回もゼロからスタートをやったので
いいかげんイヤになっている。
で、モニターはどうしようかな。
新宿南口近くのビル地下にある店。
えっと思うような小さな階段を下りていく。
割烹なのだから、お昼のコース5千円、盛り込み膳が3千円も当然。
でも、注文するのはお昼メニューならではの鰯の定食。
刺身、フライ、塩焼き、煮魚、柳川とさまざまに顔を変え、800円~900円。
これなら会社のランチに気楽に寄れる。
それでいて、ご飯がおいしい。食器がいい。サービスがいい。
得した気分。
ランチに限らずサービス料を取る時間でも、姿勢の悪い歯切れの悪い、
しかも注意力のないサービスしか受けられないときがある。
そんな店が増えたと思う。
この店では、客の様子をさりげなく見ているのが良くわかる。
ランチタイムは接客修行なのだろう。
ここで食事をするのがうれしいという店があることがありがたい。
いつか心と時間と財布にゆとりができたら、夜にゆっくりおいしい料理を食べてみたい。
割烹中嶋
きのうは、洗濯してから新宿へ。
眩暈の母が整体に行きたいというので同行した。
ランチは新宿の割烹中嶋。
鰯の刺身定食と鰯のフライ定食を頼んだ。
そのあと場所を移してプレタ・マンジェでホット・チョコレート。
プレタ・マンジェはおいしいと聞いていたけど利用したのは初めて。
おいしそうなサンドイッチやスープも並び、そのうちこっちでも食べたいな。
プレタ・マンジェのホット・チョコレートは甘すぎず、
チョコレートの香りが豊かでとてもおいしかった。
ほぼ真向かいにあるカフェ・ド・クリエに比べるとだいぶポイントが高い。
整体を受けて、芯から眠気がやってくるのをこらえて用事を済ませ、
帰宅したらムスメが友達を連れてきていた。
寝られないじゃない・・・ダンナもいるし。
結局ダンナは夜7時から草月会館に向かい、わたしは12時ごろ倒れるように眠った。
今朝は未だ寝たりない。整体を受けて効いたときはたいていコレ。
これはこれで辛い。
きょうはムスメの学校で全校展覧会なので徒歩で見に行った。
どの作品も、並んだところからうわぁんとおしゃべりの聞こえてくるような
何かを作ろうと心を傾けているパワーのようなものが感じられ、
なんだかとても力をもらったような気がした。
どれがよかったというのではなく、全体に漂う気のようなものだと思う。
億劫だったのだが行って良かった。
きょうはダンナは大宮で、どうやらバレエの仕事らしい。
寒くなってきた。体を冷やさないようになどといいつつ、
夕食の後にムスメとフローズンヨーグルトなんて食べてしまった。
なんと自覚のないことよ。反省。
だいぶ前から「スロー」という言葉がはやり。
自分を振り返る、地に足をつける、一歩一歩ごまかしなく歩む、
自分に嘘をつかない、人にも嘘をつかない、ごまかさない、信頼を大切にする。
どれも大切なことなのだが、はやり言葉になると廃れてしまう。
言葉って恐ろしい。
廃れてしまうと陳腐になる。
今なら「癒し」「ゆらぎ」といったあたりか。
ちょっと前まではなんでも「癒し、ヒーリング」だったけれど、
今聞くとちょっとうるさい感じ。
でも、自分自身を取り戻す時間はとても大切。
自分も人をも大切にして、確実に生きていきたい。
晴れた!当然のように洗濯洗濯。
朝のうちにまた郵便局で発送。
近所でアナウンサーによる読み聞かせコンサートがあり、
以前から薦められていたので聞きに行った。
プロのアナウンサーの声って聞きなれているはずだったが、
自分が心を傾けて聞くと、また訴えかけてくるものが違う。
子供のための絵本なのに、泣けた。
drug much.
昼寝しまくり。
睡眠をとらないとダメなタイプなのに、毎日睡眠4時間半なので、
週に一度は昼寝に落ちる。
まったく落ちるといっていい寝方で、真剣に寝る。
2時間くらいかな。
今夜も、夕食の後片付けが激しく散らかっていて、気力がそがれる一方。
なまじ包丁が6本もあるせいで、
全部出して使いっぱなしってどうなの>ダンナ。
アルミサッシのコンクリート住宅。換気が良くない。
北は外廊下&玄関、キッチン。南は裏庭の向こうに同じ高さまでのアパート&居室。
まわりにみっちりと家があるので、そこだけあいている裏庭と外廊下への通気だけ。
都会人の常でガンガンに暖房するし、お料理は好きだしで、冬は結露がすごい。
したがって、和室の砂壁もコンクリートにペンキ塗りの浴室もカビがくる。
朝はすべての窓を開け放って換気するけれど、
特に冬は家族にすこぶる評判が悪い。
自覚はあるのだけれど、いつも変わらない冬だ。
この家に住んで7年になる。
今年の冬は、暖房にあまり頼らない暮らしをしてみようかと思っている。
ポットにお湯を入れて暖かい飲み物をいつでも飲めるように。
家の中でも暖かい靴下を履いて足元を暖かく。
夜は寝るしたくとともに湯たんぽを用意。
軽くてナチュラルな素材の室内用上着を用意しよう。
窓の掃除をまめにやろう。
晴れた日には南の窓の内側で、クッションやふとんにお日様のぬくもりを入れよう。
ひざ掛けや腹巻を活用しよう。
寒い日本のスカスカな家での暮らしを思い出しながら、
ストレートに部屋を暖めるだけの道具にあまり頼らない冬の日を送ろうと思う。
きのうもきょうも、一日中雨。
きのうもきょうも、ダンナは仕込み道具持ってお仕事。
日曜日の夜に、ムスメの髪を切った。泣かれた。
おかしくなったわけではなくて、短くなるのがイヤだったらしい。
でも、緩やかに癖のある髪でボリュームもあるので、
長くなるとかわいくないんだよな・・・。
そういえば、自分の髪も土曜日に切った。
ダンナとムスメが買い物に行っている間に。
月曜日は午前中から郵便局へ行き、ムスメの銀行の用事を済ませ、
午後からはちょっと遠くのスーパーまで買い物に行った。
雨なのに。
間にオトウトから悩みの電話がかかってきたり、いろいろ。
オトウトは人生初の試練っていうくらいの悩み具合で
自分を励ましきれないままでセイカツしている。
それなりに悩む時期が来たのだろう。
で、夜我が家に夕食招待。
夫婦して飲みすぎた。
きょうは飲みすぎの反動でさすがに元気がない。
だーらだーらした一日だった。
で、また運勢鑑定さんに電話するのを忘れた。
深層心理で拒否してるのだろうか?不明。
あしたは休日のはずなので、あさって電話のこと。
オトウトへ。
人生、まあ食さえ足りていれば結構気高く暮らしていけるのよ。
お金はあったほうがいいというものでもない。
食と住が足りるなら、あとは社会を良くするほうに役立てたい。
わたしはそう思っている。
人生お金じゃないのよ。レベルダウンはできるはず。
どんな暮らしをしていても、人間性は変わらないのだから。
朝晩ぐっと冷え込むようになったから、家も冬支度をしなくては。
ファンヒーターは掃除をしたものの、ネジを壊したので中までは掃除不能。
今年のシーズン中に役を終えるかもしれない。
ということは、石油ストーブの方も手を入れなくては。
昨年十分に掃除をしてしまいこんだ石油ストーブを出してきた。
このアパートは石油ストーブに寛大で、灯油をどうどうと買ってこられる。
昔ながらのアラジンのブルーフレーム。とはいえ、感震消火装置はついている。
やかんがシュンシュンと音を立てるのも冬の光景。
ストーブの上でシチューや豆を煮込むのも楽しい。
灯油を買う前に、まずはウールのひざ掛けを2枚出し、クッションのカバーを換えた。
玄関と部屋の間に長いカーテンをかけ、とりあえずの冬支度。
カーテンと部屋の窓との間に空気の層をうまく作りたいのだが、
白いロールスクリーンの朝の光が好きなので毎年迷っている。
ランチョンマットも厚みのある暖かい雰囲気のものに換えた。
これからの季節、花よりもリンゴやミカンを飾ることが多い。
きれいな色を部屋に添えながら、ビタミンC補給で風邪予防にもいいのでは。
代わり映えもしない小さな家の、小さな冬支度だ。
ちょいと高いところから飛び降りる気持ちで何かを手に入れるとき、
「これは一生ものだから」と自分に言い訳する。
カシミアやキャメルのコートだったり、作家モノの家具だったり、もしかするとルイ・ヴィトンのバッグだったり。
大変結構。自分のできる限りの贅沢をするのは、成長の機会でもある。
ただし、どんなにいいものであっても、自分がそのエッセンスを使い切ったときには、
そのモノから卒業するときがくるのだと思う。
人から見たら、それは魅力をまったく失っていないかもしれないが、
そのモノを卒業するときには、その対象となるモノが、
最初の輝きを失い、やつれて見えるだろう。
かけた金額の多寡に関わらず、卒業のときは来るのだ。
そのときには潔く手放して、次の「ご馳走」に向かって歩いていきたいものだ。
もう一度。
人間関係や学習過程に卒業があるように、
モノからの卒業というのもある。
「もったいない」と執着するのではなく、手放すことで新しい風を入れよう。
MovableTypeを触り始めて半月、やっと飽きてきた。
言葉の吐き出し先としてまっとうに利用できそうでいい。
ユーザビリティもデザインも、とりあえずあっちに置いておいて
溜まった気持ちを書きとめるだけの場所。
天気は低調。総選挙の投票率が低い。
今回はダンナは選挙に行った。ここ数年なかったのでちょっとうれしい。
まあ、仕事がないというのもあるけれど。
投票をしてからC-COMへ電車で。
今月分の予算わりをした。
毎月収入がちょっとずつ生活費に食い込みつつ不定だから
月が始まってからがっちりと予算組みする。
毎月変わる生活費に少々疲れ気味。
ここ数日、病気がちを取り戻すように部屋の片づけが進んでいてうれしい。
とにかく、寝るとき、起きるときに片付いていたい。
レベル低いなぁ。
このところ、日本の家について考えている。
桂離宮は美しいけれど、茶室は美しいけれど、そこは生活の場ではない。
江戸の長屋ほどモノがなくは暮らせないけれど、
まあ、そんな風なことを考えている。
なんとなく、元気が出ない自分がいやだから
夢リストを作ってみた。
夢、いくつになっても夢。
こうなりたい、こうしたい、こんな風なわたしでいたい。
たくさんの夢を書いた一枚を手帳にはさむ。
そういうわたしになれる今日を送ろうと思う。
そんな、天気の悪い日。
まあ、なかなか空っぽにはならないものの、少しずつ物減らし中。
一か所からっぽになってみると、すっからかんを目指したくなる。
目指せからっぽの一環だが、アマゾンで、結局今までに10冊の本が売れた。
大放出のつもりで価格をつけても、
買う側の送料負担を考えるとあまりお得にならないのが残念。
かといって、手数料と送料の一部を払っても
なんとか200円くらいはプラスを残したいもので・・・。
このあたりは一部ケチ根性の問題という説もアリ。
ダンナ、本日も休み。内心焦っているのがよくわかる。
母親の眩暈はだいぶ納まったようだ。
ホットプレート問題。ホットプレートは大きい。収納場所に困る。
うちでは風呂敷に包んでオープン棚に入れ込んであるのだが、
1年に20回くらいしか使っていないことが判明。
もっと使いこなしたい。せっかく場所をとっているんだから。
とりあえず思いついたことをメモ。
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京都のお酢の箱を開けた。
中に小さなパンフレットというか、折り込みの商品案内が入っている。
表紙にいかにも西陣のイメージの店正面の写真。
夜景で障子から明かりが漏れている。
とても日本的な風景なのだが、これを見ていると
日本の建物は「水平」ラインがとても強く印象に残る。
低い二階の屋根と一階の屋根、連子格子、
低い床のライン近くまでの障子窓、続いて引き戸。
清潔な印象の白いのれんが視線を区切る。
力強い水平を繊細な垂直が区切っていく。
ふと、ル・コルビュジェの陸屋根と水平連続窓が、
すごく日本的なものに思えてきた。
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コルビュジェなんて日常生活の中ですっかり忘れていたのに
突然に思い出したのは
aki's STOCKTAKING: BARRACK finder Archivesで、「甲州街道の元材木屋」を読んだせいだろう。
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追記:
うわー、やんなっちゃったなぁ。失敗。
インスパイアに感謝してトラックバック飛ばしたけど、
トラックバックの先は建築の方のblogだったのだわ。
えーと・・・建築関係の方は読み飛ばしてください・・・
できればこの記事読まないでいただけると・・・
ご近所に住んでいる友人知人にあのラーメン屋みせたかったんです。
こだわりのある人、こだわりのある家、
小さなこだわりのある暮らし、などという。
こだわりという言葉に代わる言葉はなんだろう。
1985年にプレゼンの書類を作るとき、
「いい意味でのこだわりのある・・・」というフレーズを使った覚えがある。
それまでは「そんな小さなことにこだわるなんて」といった使い方で、
「重箱の隅をつつく」とか、「引っかかりがあって前に進めない」とか
「木を見て森を見ない」という方向の
どちらかというとマイナスの意味を持つ言葉だったと思う。
今の「こだわり」の意味するところは、
小さなことを大切にして、自分らしさを失わない、足元の見えている状態なのだろう。
ならばもう一度、言葉の意味を元に戻して考えたい。
最近、「こだわり」という言葉の元のニュアンスをちょっと大切にしてみたいと思っている。
ディテールは大切に。でも、縛られることなく。
自由で気楽でありたい。
きのう、きょうとちょっとすね気味で図書館。
ダンナはきのうは午後からC-COM、きょうは休み。
きょうも散らかり気味の一日なので、
「今を大切に」とは言いようもない。
これから深夜に向かい、ちょっと気合入れて、それからゆっくり寝るつもり。
drug today.
母がめまいで早寝だそうだ。
一人暮らしなので連絡は密に。まあ、遠くから応援。
23日に足踏み式手織り機の体験に行く。予約楽勝。
考えすぎはよくない。体を動かそう。
家庭内資金繰りを考えないと。もうひと勝負できるだろうか。
本日のメモはどれも謎。
大分前から気になっていることがあるのだが、
くりかえし思い出してはまとまらずにいる。
多分何度もこれについて書くことになると思う。
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いつの間にか、プライベートがパブリックな空間にせりだしてきている。
コンビニの前で食事をする、
電車の中で化粧をする、
電車の床に座って談笑する、
道路の真ん中にいきなり立ち止まって携帯電話でしゃべる、
電車の中でかなり真剣に食べる。
かつてはトイレから手を拭きながら出てくる、
食後に爪楊枝をくわえて事務所に戻る、
トイレのあとにファスナーを上げながら廊下を歩く
といえば、「オヤジ」の典型みたいなもので、
秘匿するべきプライベートを公的空間に持ち込む恥知らずという感じだった。
自分のニクタイの周囲30センチ(推定)以内は
全部プライベート空間という不思議な認識。
思い返してみると、ウォークマンに類する持ち運べる音源(iPod含む)、
携帯電話、ハンディなゲーム機といったあたりは、
自室にあったものが持ち出せるようになったもの、
500CCペットボトルの誕生で、好きなときに好きなだけ喉を潤すことができ、
コンビニがあれば座るところさえあれば食事ができ、
外にもゴミ箱があり、デパートやスーパーその他にトイレもある。
好きな音楽を聴きながらスナック菓子でも食べて
オンラインでゲームして友達から電話がかかってきたら無駄話をするというのは
全部自宅、自室で行なってきたことではないか。
これらは今や、電車の中や街角でも当たり前にできるのだ。
そのあたりから、パブリック意識というのは崩壊してきているのかもしれない。
(この手の話はまだまだ未完成のまま続く予定)
最近リフォーム番組が盛んになっているせいか、
書籍タイトルにも狭小住宅という言葉が出るようになってきた。
この言葉、狭い、小さい、どうしようもなーい、という
住み手が努力を放棄したような響きがあって嫌いだ。
狭くとも、小さくとも、住み手がそこをいかに工夫して自分らしく使いこなすか
それこそが家と人との付き合い方だと思うのだが、
「もーめちゃくちゃなんです、
このちっちゃい敷地をあなたさまの力でなんとかしちゃってください」と
建築家、インテリアデザイナーに丸投げして
うわぁ、すごーい、自分の家だと思えない、なんて
それではあなた、一生自分らしく住みこなせませんわよと思ってしまう。
「小さい家」「小さい生活」を自ら選んだのならば
それとうまく付き合って住みこなしてみたいものだと思う。
ことさらに衒った収納やしかけを作らなくても、小さな家を住みこなせたら
生活する人として一段階アップできるような気がする。
自分の服は、そんなに多くない。
一度その気になって処分したことがあるので、
その当時に比べれば増えたとはいえ、まだ許容範囲。
それでも、まだ最低限というほどではないかもしれない。
処分した当時、着た服を洗ったりクリーニングに出したりしたあと、
一点ずつデジカメで写真を撮った。
今は写真の整理ソフトもいろいろあるので、
パソコンで持っている服が一覧でき、便利だった。
秋冬に着るものだけを選び出したり、新しい組み合わせを考えたり。
秋口にハードディスクがおしゃかになったので、また撮り直そうと思っている。
コーディネイト写真もいくつか作ってみるつもり。
月の神の命により、本日腹痛。避けがたく腹痛。
朝いったん起きてムスメを学校へ送り出し、
再びかけぶとんをかぶって眠る。
かなり眠ってみたものの、目覚めても腹痛やまず。仕方なし。
ガスファンヒーターを分解しようとしてきのうから試行錯誤。
とうとう全部はずしちゃえ!とネジをゆるめて、
最後のひとつのネジ山をどうやら完全につぶしてしまったような。
最悪の事態。
しかたないので全部もとのとおりにネジを締めなおした。
家の中にいればいるほど、処分しなくてはならないものが目に付く。
そのためにも、家の中ですごすことは必要なのだろう。
生活するということは、メンテナンスを続けるということ。
人間関係も冷蔵庫の中身も使った道具も。
水菜をサラダにしたら家族に好評。
しゃきしゃきした歯ざわりがおいしいので、
大根の仲間特有の香りも気にならない。
試しに小松菜の葉の部分でサラダを作ったらおいしかった。
茎は茎で、縦に裂くように切り、水に放って混ぜる。
別々に食べた方が食感が面白いかも。
知らないうちに歯を食いしばっている。
しらないうちに、息を詰めている。
知らないうちに呼吸が浅くなっている。
焦りのあるとき、体の調子が悪いとき、知らず知らずに呼吸が足りない。
窓を開け放ち、深呼吸をしよう。
吐き出せるだけ吐き、思い切り吸い込んだらしばらく止め、
ゆっくりとありったけ吐き出す。
なんどか繰り返したあと、意識して深く息をしていると、
体のすみずみまで酸素が行きわたる気がする。
朝起きたら天気がいいのだが、寝不足で眠い。
ダンナは森下スタジオで現場、わたしは洗濯。
明るい家庭のような朝を過ごし、ふと思いついて通帳を見ようと思ったら
なんとみつからない!すわ!今流行の通帳泥棒?
なんのかんので1時間ばかりあちこち片付けたりひっくり返したり。
なんのことはない、最後に壁のジャケットのポケットから出てきた。
安心して外出。
日本橋の高島屋で、三宝柑のママレード、柿巻き、ちりめん山椒購入。
ちりめん山椒を土産に京橋のギャラリーへ。
展覧会でパワーをもらい、一歩わたしの先を歩いている人からもパワーをもらい、
不思議なつながりを感じてきた。
きのう、米5キロと牛乳2リットルと500グラムの肉と3キロのジャガイモと
バナナとレタスを買い込んで大型ショルダーにつめこんで帰宅。
そのせいで妙な具合に体が痛い。
情けないことだなぁ。
紙を一部こよりにしての表現と、
羊の毛を紡ぎ、紡がないままの原毛を織り込んだ布の表現。
紙というのは表現をのせるメディアとして
選びに選ばれることはよくあることだが、
ストーンとした紙に切り込みをいれ、紙縒りにして図形を刻み込み、
それを空間をあけて重ねていくことで、
思いがけない奥行きのある作品になる。
平面自体が力を持っていることがよくわかる。
紙を紙縒りにしたときの、戻ろうとする力と保持しようとする力。
そのバランスと緊張感が感じられた。
織りのほうは、いろいろな性質のいろいろな色の原毛をそれぞれ紡ぎ、
単純な平織りの中に原毛を織り込んで
動きや暖かさ、豊かな表情を作り出している。
布は、ストールに、マフラーにと使える実用的なサイズなのだが、
それ単体で飾っても十分に存在感がある。
それでいて、身に着けたときに人が負けない。
よく、身に着けるアートなどというけれど、
これらの作品もテキスタイルアートとしての服装品だ。
こういうものは、手にした人が身につけるときに扱いを工夫することで、
また新しい表情を見せてくれるだろう。
身につけることで表現に参加できる面白さを楽しんだ。
新郷笙子展「糸」布と紙
あしたまで 11:00-19:00
京橋 アートスペース繭
ああ、そうか。縒り合せた原毛も紙も、糸なのだった。
ウールというのは羊でできているのだと感じる、
素材のパワーのある展覧会でわたしも力をもらって楽しかった。
買い物関係先延ばしの重たいもの、一気に購入。
土曜日学校関連、これもとにかくやっつけた。
ダンナはきょうも仕事、ムスメは低調。アレルギーだから仕方ない。
天気が良くないので、洗濯はまたあした。
あしたは日本橋まで出かける予定・・・かな。
積み上げた紙類をやっと分類処分。やっと見通しが良くなった。
タオルの端処理もやっと。あとは修理関係。
先延ばしにしたものはすべて、重石のように心を重くする。
なんでも早めに処理するに越したことは無いのだが。
いろいろと気にかかっていることがまだまだある。
来週一週間はまだ引きこもりの後処理といった感じになるだろう。
なかなか使わないバスタオルを8枚に切って、キッチンで使うハンドタオルにした。
ミシンの抑え金がどう考えても強いのだが、どうやって調節していいのかわからない。
昔のミシンはわかりやすかった。どうも機械の内部はいじりにくい。
ジグザグのミシンは、まっすぐに縫うときもかすかにジグザグになる気がする。
縫い物はきらいなので、ますます馴れないのだが。
ともあれ、汚れがちなキッチンのハンドタオルがたっぷりできて、
気分は上々。
洗濯3回。それに値するいい天気だ。
きょうの教訓は、人から見て気取っててもいいじゃないかということ。
きれいなものに敏感に。汚いものにも敏感に。
自分が自分らしくなれる場所を探し出そう。
そして、いらないものはやっぱりいらない。
柴の小屏風を手放した。
キッチンタイマー。いつもは冷蔵庫の横についている。
お風呂を沸かすとき、なにかを煮るとき、ご飯を炊くとき、いつも使う。
そういう当たり前の仕事だけでなく、このタイマーはわたしのペースメーカー。
疲れたとき、30分と決めてちょっと横になるとか
座り飽きて40分間散歩に出るとかそういう気分転換のとき、
また、どうしても気にかかる家事を1時間集中してやろうとするとか、
仕上げたい製作物に真剣に取り組みたいとき、
そういう時には、紐で首からぶら下げている。
学校だったらチャイムがなるし、職場だったらアポイントがある。
自宅で何かしているときにはついつい次の予定に食い込んでしまうから、
このタイマーがいいきっかけを作ってくれる。
以前は「電池を使わない方がエコロジカル」とぜんまい式を使っていたが
デジタルの方がせかすような音がしなくていいようだ。
自己トラックバックの練習もかねて。
また古い油が溜まってきたのでせっけんを作ろうと思う。
そのためにメモを作っておく。資料は区の組織からNPOになった団体の小冊子(有料)。
材料:廃食用油・・・500cc、苛性ソーダ・・・75g、水・・・140cc
・苛性ソーダの中に静かに水を注ぎ、発熱に注意しながらかき混ぜます。
・苛性ソーダが完全に溶けたら廃油を静かに注ぎます。
・はねないように気をつけながらよくかき混ぜます。
・とろりとしてきたら容器に移します。
実際にはとろりとするには大分時間がかかるし、
混ぜるのに飽きてしまったら少しくらい時間をあけて再開しても問題ない。
大きい型に入れたときには、完全に固くならないうちに切り分けよう。
バターくらいの固さならきれいに切り分けられる。
わたしは市販のプリンのあき容器を使っている。
たまたまうちのせっけん入れにちょうどいい大きさだから。
こうしてできたせっけんを、1ヶ月くらい置いてから使う。
アルカリが落ち着くらしい。せっけんサイトでは熟成と呼んでいるようだ。
顔を洗うには不向きだと思う。洗濯の部分洗いや食器洗いにどうぞ。
いかにも懐かしい、油くさいせっけんが出来上がる。
ああ、11月だ。年末まであとちょっと。
ダンナは千駄ヶ谷で仕事だとかで早朝から出かけた。
天気は重たく、溜まった洗濯物は溜めっぱなしにすることに。
ゆっくり起きてゴミ出しをして、だーらだらしながら家の片付け。
先日「散らかって散らかって」とこぼしたら、
「あなたんとこは圧倒的に狭いから」と言われた。
そのとおりでございます。退避する場所がない。
家族3人に押入れアパートサイズが一間半しかないから。
しょうがないよぉ。
午後からムスメは図書館へ行き、掃除に拍車をかける。
ムスメの机周りがすごい。
わたしも昔はそうだったので、しかめっつらはするまいと思う。
今夜はチキンソテーにキュウリとほうれん草のサラダ、稲庭うどん。
変?おいしかった。
体重が限界値に来た。
先日も「おじょうちゃん、大分太られた?」なんて言われたし。
平常時プラス9キロになっている。一番オシャレした時期から12キロ増えてる。
そりゃーだめでしょう。反省。
しばらくお酒ヤメヤメ。
本を何冊持っていますか?
ジャケットを何着持っていますか?
ボールペンは何本ありますか?
持ち物を数えてみよう。
着るものがないと思っていたのに、数えてみたら150着、なんてね。
使っているものとしまいこんでいるものとどちらが多いだろうか。
もちろん季節のものや行事のものは別勘定。
使っているものの方が多ければいいのだが。
誰かいらしたときに出すと決めたティーセット、
去年は何回出しただろうか。
それなら毎日のティータイムに使ったらどうだろう。
お客さま用の器にお金をかけるなら、毎日使う御飯茶碗にお金をかけたらどうだろう。
そうやって毎日贅沢していると、銀行でもらった小皿が気に入らなくなるかもしれない。
いつのまにか、本当に好きな、
いつも使うものだけの暮らしになっていきたいと思っている。