2004年08月20日

精進落とし

知人が亡くなって、通夜に参列した。
海での事故だった。
同じくらいの年令の人が亡くなると、ずしんと来る。

事故なんてあまりに突然だという人もあれば、
長く寝付いての死でなくてよかった、巻き込まれての死でなくて良かった、
人の恨みを買っての死でなくて良かったと、言う人もある。
ずいぶん最近になるまで、わたしは人の死にいいも悪いもあるか、
どのような死であっても痛ましいのだと思っていた。
精進落としの席で、大きな声で語り合い、酒を飲み、
そこそこ楽しそうにしている人が、理解できない、キライだと思っていた。
その日くらいは、亡くなった人のことだけを考えるべきだと思っていたから。

おとなになるに連れ、葬祭も機会だと割り切ろうと思うようになった。
数年前に父親が死んで、それからは今までとはきっぱりと考えが変わった。

亡くなった人は、思い出しさえすれば、そこにいる。
かなり濃密にそう感じる。
同時にあちらとこちらに思う人があれば、同時にあちらにもこちらにもいる。
命というのはそういうものだと思った。
参列したその日だけその人を思うのではなく、折に触れて思い出せばいい。
葬祭の席で、古い知人に出会ったなら、その出会いを温めなおした方が
故人の心に適うのではないか。
長く会わなかった古い知人に会うたびに、亡くなった人を思い起こせばいい。
精進落としの場があるなら、かつての自分と亡くなった人と一緒に過ごした時間と仲間を
もう一度確かなものにするチャンスとすればいい。
古い知人が集まって、楽しそうにしていたら、
亡くなった人も自分が作ったその機会をうれしく思えるかもしれない。
再びの出会いの機会をありがとう、これからも忘れないからね、
そう亡くなった人に感謝したらいい。

そんなことを人に話した。
通夜のあと、あまりしゃべらず、その場に居にくそうにしていたから。

投稿者 りりこ : 2004年08月20日 15:07
コメント

りりこさんの思いが自分の思いと似ていたので、ちょっと感動してしまいました。
私も父が亡くなるまで、通夜・葬儀で笑い合い楽しく話をしている人たちを嫌っていました。

父は亡くなる数日前、意識も朦朧としているのに、遠方から自分の見舞いに来た兄弟たちに、
ほとんど出ない声と身振り手振りで「早く皆でメシを食って来い。」なんて言ったんです。
そんな気遣いしてる場合じゃないのにね・・と笑いながら、今となってはこれも優しい父のことを思い出す一場面となりました。

Posted by: なお。 : 2004年08月21日 00:51

身近な人を亡くしてみるまでわかりませんね。
彼だったら、彼女だったらどう思うかと考えなかったのかもしれません。
そう考えると無神経なおっちゃん、おばちゃんと思っていた人たちが
もうそのことを知っていたのかもしれないですよね。

Posted by: りりこ : 2004年08月21日 13:24
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